著:内田美穂
ダゴンの神殿が崩壊するオペラの最終シーン© 2022 ROH. Photograph by Clive Barda
Samson et Dalila at the Royal Opera House
カミーユ・サン=サーンスが作曲したフランス・オペラ、『サムソンとデリラ』は、旧約聖書「士師記」上のサムソンの物語に基づいた話だ。ペリシテ人に支配されたヘブライ人は、怪力の持ち主、サムソンに鼓舞され反乱を起こすが、ペリシテの美女・デリラは、サムソンを誘惑し、怪力の源の秘密を聞き出す。デリラに騙され力を失ったサムソンは囚われの身となり、目を抉られ、ペリシテの神・ダゴンの神殿に連れていかれる。後悔するサムソンはヘブライの神・エホバに最後にもう一度だけ力を与えるよう祈る。祈りは聞き入れられ、力を取り戻したサムソンは神殿の柱をなぎ倒し、中にいるペリシテ人と神殿と共に自ら滅びる、という話だ。このオペラが作曲された1877年当時のパリでは聖書を題材にしたオペラは受け入れられず、ドイツのワイマールで初演された。フランスで上演されたのは13年後の1890年で、更にパリで上演されたのは1892年の事だ。
この作品はリチャード・ジョーンズの新作品でへミ・シンがデザインした四角い箱に囲まれた舞台が反響板として役立った為かどの歌手の声も劇場いっぱいに響き渡った。真っ暗な壁に窓が四角く切られ、その中に目が抉られたサムソンがいる様子などは幾何学模様の中に彼が存在しているようで視覚を楽しませた。第3幕で登場するダゴンは右手にスロットマシーン、左手にポーカーチップを持った水色の巨大なプラスチックのにやけた顔で、堕落した物質主義の権化を象徴していた。途中で金色の雨が降ってきたり、ガザの太守・アビメルクの頭が金色だったりとペリシテ人のギラギラしたえげつなさを強調していた。オリエンタリズムともいうべき偏ったペリシテ人の扱いに不愉快になった人もいるかもしれない。有名なバッカナールのシーンはダンスが卓越していて吸い込まれるように舞台に目が釘付けになった。
サムソンを演じた韓国人のスクジョン・ベックはこの作品でROHのデビューを飾ったが、声がセクシーで輝いていて良く通り、また容姿も男らしく色気があり秀逸だった。デリラはこの役を十八番とするエリーナ・ガランチャが演じたが、妖艶なのは周知のとおりだが、いささか貫禄がありすぎた。しかしながら太くて温かみのある彼女のメゾソプラノの声は観客を魅了した。残念だったのはサムソンとのケミストリーが全く感じられなかったことだ。ダゴンの大祭司を演じたルーカス・ゴリンスキの迫力ある演技とアビメルクを演じたブレイズ・マラバの深みのある低い歌声も特筆に値するほどあっぱれだった。
サン=サーンスは、最初この話をオペラではなくオラトリオにしようと思ったという。それゆえ、このオペラではコーラスが大きな役割を果たし、最初のシーンもバロック風のコーラスのフーゲから始まる。バッハの『マタイ受難曲』のようでオペラとしては珍しい。そしてオペラの音楽としては劇作法(ドラマトゥルギー)が今一つだ。例えばこのオペラでは、ルーベンやヴァン・ダイクの絵画に描かれているサムソンがデリラに裏切られるシーンが、舞台裏で行われてしまうので、この最高に劇的なシーンも、それに伴うドラマチックな音楽もない。サムソンがデリラを追いかけ二人が舞台上から消えたところで第2幕が終わり、第3幕の始まりでは既にサムソンは囚われの身になっているのだ。とはいうものの、指揮者のアントニオ・パッパーノの感情豊かな指揮に率いられたROHのオーケストラはサン=サーンスの旋律の美しさが際立つ音楽をチームワーク良く奏でていた。特に水が流れるように奏でられたクラリネットやフルートのソロは心を揺さぶった。ROHのオーケストラに失望することはまずないが、この日はとびきり上等の出来だったと思う。
音楽よし、オーケストラよし、舞台は楽しく、歌手は秀逸で、この『サムソンとデリラ』は一見の価値がある。
At the Royal Opera House, London, until 19 June
サムソンを演じるスクジョン・ベック© 2022 ROH. Photograph by Clive Barda
デリラを演じるエリーナ・ガランチャ© 2022 ROH. Photograph by Clive Barda
ペリシテの神・ダゴン© 2022 ROH. Photograph by Clive Barda
バッカナールにおけるダンスのシーン© 2022 ROH. Photograph by Clive Barda
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