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ロイヤル・オペラ・ハウス (ROH) の『フィデリオ』


地下牢で岩に縛り付けられているフロレスタン(ヨナス・カウフマン)

©ROH 2020 Photographed by Bill Cooper

ロイヤル・オペラ・ハウス (ROH) の『フィデリオ』

'Fidelio' at the Royal Opera House

『フィデリオ』はベートーベンの唯一のオペラだ。2020年はベートーベン生誕250周年だからその記念公演をしようとする場合はこれしかない。というわけで、今年はROHとグラインドボーンが『フィデリオ』の新作品を発表し、ガーシングトンが2014年のジョン・コックスの演出作品をリバイバルする予定だった。私はこの3つのオペラを比較するのを心待ちにしていた。しかしながらコロナウィルスのパンデミックのせいでガーシングトンの今シーズンの公演は全て中止。グラインドボーンも7月半ばまで公演を中止。その先も現時点ではまだどうなるか見通しが立たない。先頭を切ったROHの新作品のみ、ロックダウンの前になんとか鑑賞することができた。演出はドイツ人のトビアス・クラツァー。昨年バイロイト音楽祭で『タンホイザー』を演出し、今、最も脂がのっている演出家の一人である。さらに大スターのヨナス・カウフマンがフロレスタンを演じたことからチケットは昨年一般発売されると同時に即完売。ROHの今シーズンの目玉作品だった。 クラツァーのこの新作品の時代設定は1794年フランスのパリでロベス・ピエールが「恐怖政治」を行っていた頃だ。ベートーベンは当時パリの「恐怖政治」の事をオペラにしたかったが、その時の検閲から許可が下りないのは目にみえていたのでスペインという設定に変えて『フィデリオ』を創ったという。この解釈からクラツァーはベートーベンが元より意図していた時代背景に変えてこの作品を作った。オペラの中の強圧的で残酷なドン・ピツァロのモデルはロベス・ピエール、一方ドン・ピツァロによって理不尽に2年間も投獄されているフロレスタンはロベス・ピエールの政敵ダントンと理解できる。クラツァーは『フィデリオ』の台本を元にベートーベンと同時代の劇作家ゲオルク・ブーヒュナーや、劇詩人のフランツ・グリルパルツァーが書いた革命をテーマとした劇からの抜粋も加えたりして、独自のセリフを作り上げている。そして『フィデリオ』は第一幕と第二幕が同質なものではないといい、この作品は第一幕と第二幕のコントラストを強調している。

第一幕は革命後の愛と自由をテーマとしたメロドラマで、オペラ・コミーク的に曲なしの会話が時折挟まれており、ヤキーノとマルツェリン、またレオノーレとマルツェリンのやり取りなどモーツァルト的なオペラ・ブッファのようでもあった。第一場面はパリの陰気臭い拘置所の中庭で、「自由、平等、博愛」を象徴するフランスの国旗が翻り、衣装も18世紀後半のものだ。前奏曲の最中には切り落とされた頭でいっぱいのかごを、処刑された罪人たちの妻に渡すというシーンが演じられた。グロテスクでのっけから驚かされたが、それがギロチンが有名な処刑法だった恐怖政治を象徴していた。その点以外にもクラツァー独特のシナリオ、例えばマルツェリンが、フィデリオに迫りよりヴェストのボタンをはずそうとして彼(彼女)が男装しているという秘密を知ってしまったりするなどいくつかのサプライズがある。そして第二幕になるとがらりとセットの様相が変わる。地下牢でフロレスタンの足が岩に縛り付けられているが、そこはモダンな白い部屋の中で、現代の服を着た人々が劇場の観客のように椅子を並べてフロレスタンを傍観している。人々はフロレスタンの扱われ方にうんざりしたり、嫌悪感を表したり、また彼に同情して自分の持っている水を分けてあげようかと思ったりするが、誰も腰を上げて行動を起こさない。後方のスクリーンにはその人たちの表情や行動が大写しにされる。クラツァーの表現したいことは明白だ。政治的発言をしない声なき大衆の中における個人の責任を問うているのだ。恐れや怠惰、また仲間からの圧力に屈して自分の感情を抑制し他人に手を貸さないのは社会において嘆かわしいという彼のメッセージである。スクリーンに映し出されるその大衆によって演出家の政治的メッセージはよく伝わったが、私は気が散って、歌手達に集中できなかった。更に悪党であるドン・ピツァロにとどめを刺すのはレオノーレではなくマルツェリンの銃弾というのも驚きだった。サプライズがあるのはいいが、クラツァー独特の解釈によって第一幕と第二幕を分けたことにより、流れが途絶え展開が悪いと感じた。

さて、歌手陣の話に移ろう。この日、レオノーレを演じたノルウェー人のソプラノ、リース・ダヴィッドセンの演技がこの上なく優れていた。第一幕の聞かせどころ、「極悪人め!(Abscheulicher!)」を歌った時などはその正確さと潔さの感じられる透き通った声にしびれた。そのうえ、妻としての愛情を含んだ温かみも声に乗っていたのが素晴らしい。更に威厳をもって信念を貫くその姿は気品もあり、迫力があった。レオノーレはベートーベンの理想の女性とされるが、ダヴィッドセンはすんなりとそれを納得させてくれた。男装も不自然さがなく板についていたので今度は彼女が普通の女性役を演じるところを見てみたい。フロレスタンを演じたカウフマンは初日には、体調が悪いことをご承知おきくださいというアナウンスがあったが、私の観た日は彼の最高演技とは言えないまでも8割程度の出来だった。しかしながらフロレスタンという役は出番が少ない上に2年もの間牢獄に入っている餓死寸前の人物なのでみすぼらしく、カウフマンの本来の格好良さは皆目見いだせなかった。レオノーレとの間のケミストリーを感じられなかったのも残念だった。ヤキーノ役のロビン・トリッチュラーとマルツェリン役のアマンダ・フォーサイスはサポート役として演技も小粋で歌も小気味よく響いてきた。非情なドン・ピツァロ役を本来はサイモン・ニールが演じるはずだったがこの日は体調不良のため、代役でミヒャエル・クプファー・ラデッキーが急遽出場した。ドン・ピツァロの悪人らしい感じは出ていたものの歌はあまり冴えなかった。ロッコ役のゲオルク・ゼッペンフェルトは、「もし、余分な金がないなら(Hat man nicht auch Gold beineben)」のアリアを金に目がない小者らしい歌いぶりで表現し、印象に残った。

アントニオ・パッパーノの指揮は精力的だったが、一瞬、楽譜の読み方が表面的であるような印象を与える場面もあった。それでも彼の落ち着いた素振りから醸し出される存在感と統率力はゆるぎなく甚大だ。このオペラはコーラスによる聞かせどころも大事だが、第一幕の「囚人のコーラス(O welche Lust)」は暗闇から出て光を浴びた感動がこちらにも伝わってきたし、オペラ締めくくりの歓喜の賛歌のコーラス「献身的な妻を得た者に(Wer ein holdes Weib errungen)」も背筋がぞくぞくするほど訴えてくるものがあった。

『フィデリオ』はアリアのメロディーも美しく、ドラマチックで感動的な曲が多々あるものの、劇として流れが悪くオペラとして上演するよりもコンサートホールで部分的に演奏する方が心に響くような気がする。今回は特にクラツァーが第一幕と第二幕を分けたことも影響しているかもしれない。ラブストーリーでありながら自由と平等の為に戦うものが暴政を打ち砕くという政治的なところや夫への愛と忠誠心から自分の命をかける勇気ある妻を神のように崇める宗教的な教訓めいたところもどうも私にはしっくりこない。とはいえベートーベンは大好きな作曲家であり、なぜか必ず見てみようと思うオペラだ。

グラインドボーンの『フィデリオ』は、英国の若手演出家、フレデリック・ウェイク・ウォーカーによるもので、どんな仕上がりなのかが楽しみだ。クラツァーのように独自の解釈で冒険的に制作するのであろうか?コロナウィルスの感染拡大が落ち着いてなんとか公演されることを切に望んでいる。

(右)フロレスタン(ヨナス・カウフマン)を助けに来た(左)レオノーレ(リース・ダヴィッドセン)

©ROH 2020 Photographed by Bill Cooper

(左)ロッコ(ゲオルク・ゼッペンフェルト)と(右)娘のマルツェリン(アマンダ・フォーサイス)

©ROH 2020 Photographed by Bill Cooper

ヤキーノ(ロビン・トリッチュラー)©ROH 2020 Photographed by Bill Cooper

自由、平等、博愛の象徴であるフランス国旗が翻る第一幕

©ROH 2020 Photographed by Bill Cooper

ドン・ピツァロ(サイモン・ニール)がフロレスタン(ヨナス・カウフマン)を殺す寸前に

マルツェリン(アマンダ・フォーサイス)がドン・ピツァロを銃で撃つ

©ROH 2020 Photographed by Bill Cooper

Miho Uchida/内田美穂

聖心女子大学卒業後外資系銀行勤務を経て渡英、二男一女を育てる傍らオペラ学を専攻、マンチェスター大学で学士号取得。その後UCLにてオペラにおけるオリエンタリズムを研究し修士号取得。ロンドン外国記者協会会員(London Foreign Press Association)。ロンドン在住。ACT4をはじめ、日本の雑誌にて執筆中。https://www.mihouchida.com/

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