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ロイヤル・オペラ・ハウス (ROH)、ヘンデルの『アグリッピーナ』


ジョイス・ディドナート(アグリッピーナ)とフランコ・ファジョーリ(ネローネ)

©ROH 2019. Photo: Bill Cooper

ロイヤル・オペラ・ハウス (ROH)、ヘンデルの『アグリッピーナ』

Agrippina by Handel at the Royal Opera House

オリヴィエ賞の最優秀オペラ新作品賞や国際オペラ賞の最優秀演出家賞など、数多くのアワードを受賞し注目されているバリー・コスキーの新しいプロダクション、『アグリッピーナ』がROHで上演されている。『アグリッピーナ』の初演は1709年のヴェニスであるが、ドイツで生まれイギリスに帰化したヘンデルが、青年時代に3年半ほどイタリアに滞在した際に創作した。私はもともとヘンデルオペラが好きな上に、タイトルロールを演じるのがジョイス・ディドナート、オットーネ役には英国カウンター・テノールの第一人者、イェスティン・デイヴィス、そしてアグリッピーナの息子役、ネローネに世界中で押しも押されぬ人気のカウンター・テノール、フランコ・ファジョーリが扮するというので2019/2020シーズンのプログラムが発表された時から心をワクワクさせていた。

アグリッピーナは実在したローマ帝国の皇族で、皇帝ネロの母、また皇帝カリグラの妹として知られている。彼女の事を記した史料としては古代ローマの歴史家であったタキトゥスが書いた『年代記』(AD116年頃)や、博物学者、大プリニウスが書いた『博物誌』(AD77)などがあるが、彼女は卑劣でずる賢い上に、巧みに人を操り、自分の息子であるネロを皇帝の座に就かせるためには手段を選ばない人間だったらしい。ヘンデルの『アグリッピーナ』は彼女のこの話を題材にしたオペラである。バリー・コスキーは『アグリッピーナ』の設定を現代に置き換えることによって、そこに内在するパワーゲーム、嫉妬心、ナルシシズム、暴力、そしてブラックユーモアは古代ローマに限らずいつの世にも存在している普遍的なものであることを訴えている

ジョイス・ディドナートはしたたかな女性役がぴったりだった。例えば第一幕でパッランテとナルチーゾを手玉に取り、息子ネローネを皇帝にする手助けをすれば自分の愛を捧げると両人に二枚舌を使う際の演技など、コミカルかつ魅惑的で観客を惹きつけた。しかしながらアグリッピーナの内面はしごく複雑で自分のめぐらした策略の行く末が不安になったりもする。ヘンデルはこの複雑な計略家のキャラクターを巧みに音楽に表している。代表的なのが第二幕の彼女の聞かせどころ「私を悩ます思いの数々!」(“Pensieri, voi I tormentate”) である。ハラハラする感じのする暗鬱としたト短調のこのアリアは、アグリッピーナの不安定な感情がよく出ている。ディドナートは果敢に自分の計画を遂行しながらも憂慮する女傑の姿を巧みに表し、その迫力たるや鳥肌が立つほどだった。この複雑なアグリッピーナと同様に矛盾を内面に抱える女性ポッペアは、アリアの数やその難易度そして歌手としてのテクニックの披露のチャンスなどアグリッピーナに引けを取らない役どころである。ルーシー・クローウィーが扮したが、彼女のいつもながらのつやのある伸びる歌声は素晴らしかった。しかしバリー・コスキーのこの作品は踊りながら、また飛び歩きながら歌うことが多く、踊りと歌の両立は彼女には大儀そうに見えた。アグリッピーナとポッペアの強さと複雑さに比べてオットーネ、ネローネ、パッランテ、ナルチーゾ、そしてクラウディオの男性陣は全員単純で彼女達の権謀術数にまんまとやられてしまうが、この作品では男性陣の弱さを強調しているような気がしたのは私だけであろうか?元来私はカウンターテノールの声のファンであるが、このオペラには3人もカウンターテノールが現れるのがうれしい。特にイェスティン・デイヴィスが第二幕のアリア「月桂樹の冠を戴き」("Coronato il crin d'alloro")を歌った時は、音域が合っているのか、彼の持ち味であるすべらかに高く響く声に感性を刺激され、心奪われてうっとりした。しかしながらこの日、演技も歌も素晴らしかったのはフランコ・ファジョーリだった。マザコンでパンセクシュアル的なネローネを演じた彼の演技は説得力があり、また歌で超絶技巧を披露した彼は素晴らしかった。特に第3幕で「風から逃げる雲のように」("Come nube che fugge dal vento")を歌い切ったときは余りの美しさに言葉が出なかった。この作品はアグリッピーナとポッペアの対照的な衣装も楽しめる。また市民に施しをする場面でネローネが客席に降りてきて観客たちの手を握り締めたり、アグリッピーナがマイクを通してコンサートさながらに歌うなどエンターテイメント性にも富み、3時間を超える長いオペラだが観客を飽きさせることがない。ROHデビューのマキシム・エメルヤニチェフは、ハープシコードを弾きながら指揮を執り、古楽器オーケストラのエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団を率いていた。軽やかな蝶のような動きと情熱的な態度はまるでモーツァルトのようだった

特筆すべきは全霊尽くして策略ゲームに勝利したアグリッピーナが一人佇むオペラの最後のシーンだ。静かなこのシーンの目的は彼女の疲労困憊と孤独さを観客にも味わってほしいからだそうだ。そうする中で彼女に対する倫理的な良し悪しの判断も観客に任せるのだと言う。前衛的で何かと話題になるバリー・コスキーの作品だがこの『アグリッピーナ』は楽しめる。私のおすすめの作品だ。ぜひROHに足を運んで頂きたい。

右からフランコ・ファジョーリ(ネローネ)、ルーシー・クローウィー(ポッペア)、

ジャンルカ・ブラット(クラウディオ)、イェスティン・デイヴィス(オットーネ)

©ROH 2019. Photo: Bill Cooper

ジョイス・ディドナート(アグリッピーナ)とアンドレア・マストローニ(パッランテ)

©ROH 2019. Photo: Bill Cooper

イェスティン・デイヴィス(オットーネ)©ROH 2019. Photo: Bill Cooper​

ジョイス・ディドナート(アグリッピーナ)とエリク・ジュレナス(ナルチーゾ)

©ROH 2019. Photo: Bill Cooper

右からルーシー・クローウィー(ポッペア)、ジャンルカ・ブラット(クラウディオ)

©ROH 2019. Photo: Bill Cooper

Miho Uchida/内田美穂

聖心女子大学卒業後外資系銀行勤務を経て渡英、二男一女を育てる傍らオペラ学を専攻、マンチェスター大学で学士号取得。その後UCLにてオペラにおけるオリエンタリズムを研究し修士号取得。ロンドン外国記者協会会員(London Foreign Press Association)。ロンドン在住。ACT4をはじめ、日本の雑誌にて執筆中。https://www.mihouchida.com/

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