大蛇とタミーノ(デイヴィッド・ポーティッロ)
© Glyndebourne Productions Ltd. Photo: Bill Cooper
グラインドボーン音楽祭2019『魔笛』
Magic Flute at Glyndebourne Festival Opera 2019
人気オペラの新しいプロダクションが既存の作品と異なり斬新な演出の場合、新聞の批評欄などでは必ずや肯定派と否定派に分かれて論じ合いが行われる。それもオペラの世界の楽しみの一つだ。今夏のグラインドボーン・オペラで上演されたモーツァルトの『魔笛』がまさにそれだった。フレンチ・カナディアンの演出家アンドレ・バーブと舞台美術家ルノー・ドゥセのコンビによる作品である。彼ら二人は仕事のパートナーとなって20年弱になるが、『魔笛』の演出は今まで何度も断り続けてきた。エマヌエル・シカネーダーの書いたリブレットはセクシスト(女性蔑視的)でレイシスト(人種差別的)であるからというのがその理由だ。他の演出家たちはポリティカル・コレクトネスの立場からリブレットの一部をカットした上で演出を行ってきたが、バーブとドゥセの考えは、台本も音楽も丸ごと演出しなければ本当の『魔笛』にはならないというものだ。そのため、カットなしで、しかし表現の中立性を保てる演出をするしかないが、今回ようやく実現した。台本はカットなしで全部使う。 舞台は男勝りの未亡人アンナ・ザッハーが経営する19世紀におけるウィーンの「ザッハー・ホテル」からアイディアを得て、夜の女王をホテルの女主人として設定している。そして彼女を当時世界中に広がりつつあった女性参政権運動のメンバーとして女性の権利の為に戦う勇士として描いている。また王子タミーノをホテルの泊まり客に、神官ザラストロは、ホテルの革新的なシェフという役柄にした。黒人の奴隷頭のモノスタトスはホテルのボイラー室担当者で白人が演じるが顔がすすで真っ黒という演出だ。
初演当時、モーツァルトは折り目正しく格式ばったウィーンのブルク劇場の為にではなく、大衆劇場用に『魔笛』を創作したという事実に基づいてか、自由奔放な雰囲気で観客がわっと驚くような場面が続く。「風変り」で「華やかな」作品で定評のあるバーブとドゥエのコンビによるプロダクションらしく、今までには例のない『魔笛』に出来上がっており、また衣装も舞台も鮮やかで人目を引く。初めに出てくる王子タミーノを襲う大蛇が、メイドの運ぶ高く積みあがった皿からできている所から型破りで新鮮だった。そしてタミーノを案内する二人の武者がホテルのヒーティングシステムの部品からできていたり、台所の中で野菜が空を飛びアルチンボルドのような絵になったり、スペクタクルとセンセーションを楽しむことができる。パミーナはロブスター料理を調理することで、また、タミーノは皿洗いを仕上げることでフリーメイソン的な試練を通過するなどのアイディアも斬新かつ男女平等のニュアンスを醸し出していた。11もの異なるセットが入れ替わるが、ザラストロの牛耳るキッチンからモノスタトスの担当するホテルのボイラー室、果てはホテルのロビーまで全てはバーブ自身が描いたモノクロの背景幕が使われていた。センスの良い洗練された筆遣いで舞台を華やげていた。
力強いパミーナを演じたソフィア・フォミーナの水晶のように透き通り輝いた声にはうっとりさせられたし、ザラストロを演じたブリンドリー・シェラットのずっしりと重く響く低音は威厳と迫力があった。タミーノを演じたデイヴィッド・ポーティッロは情熱に欠けたが歌はそつなくこなしていた。キャロライン・ウェッターグリーンの夜の女王は「Der Hölle Rache(復讐の炎は地獄のように我が心に燃え)」も「O zitt're nicht(「ああ、怖れおののかなくてもよいのです、わが子よ」も金切り声的なコロラテュラで安心して聴くことができなかった。にもかかわらず勇気をもって参政権獲得の為に戦う、いつもの冷たい夜の女王と異なる姿には同情の念を抱かせた。またパパゲーノを演じたビヨン・ブーグのコミカルで魅力的な演技が印象的だった。ケレム・ハサンの指揮は見た目に上品でテンポよくエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団を率いていた。
「人目を引くためだけで趣味の悪いごたまぜ」といった酷評もあったが、『魔笛』を観るのが初めてで、しかも余りオペラには興味のない18歳になる長女に感想を尋ねたら、「活気に満ちていて面白かった!」の答えが返ってきた。過去の傑作に対する演出はこうあるべきという固定観念のない若者にはうけるのかもしれず、新しい観客を招き入れるという点においては、この作品は成功だと思う。もともとおとぎ話的でつじつまの合わない点が多いオペラで有名な『魔笛』である。初演当時、大衆向けに作られたのと同じように堅苦しくなくエンターテイメント性に富んでいて終始楽しめるプロダクションもいいと感じた。舞台をよく見るとフリーメイソンの象徴的意義も隠れているそうだ。もう一度見てみて今度は背景幕に潜むその象徴や記号体系を探してみたい。
タミーノ(デイヴィッド・ポーティッロ)とパミーナ(ソフィア・フォミーナ)
© Glyndebourne Productions Ltd. Photo: Bill Cooper
ザラストロ(ブリンドリー・シェラット)© Glyndebourne Productions Ltd. Photo: Bill Cooper
モノスタトス(イェルク・シュナイダー)、第一侍女(エスター・ディエルケス)、
夜の女王(キャロライン・ウェッターグリーン)、第三侍女(キャタリナ・マギエラ)、
第二侍女(マータ・フォンタナル・シモンズ)© Glyndebourne Productions Ltd. Photo: Bill Cooper
パパゲーノ(ビヨン・ブーグ)とパミーナ(ソフィア・フォミーナ)
© Glyndebourne Productions Ltd. Photo: Bill Cooper
第二幕における舞台シーン© Glyndebourne Productions Ltd. Photo: Bill Cooper
Miho Uchida/内田美穂
聖心女子大学卒業後外資系銀行勤務を経て渡英、二男一女を育てる傍らオペラ学を専攻、マンチェスター大学で学士号取得。その後UCLにてオペラにおけるオリエンタリズムを研究し修士号取得。ロンドン外国記者協会会員(London Foreign Press Association)。ロンドン在住。ACT4をはじめ、日本の雑誌にて執筆中。https://www.mihouchida.com/