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イングリッシュ・ナショナル・オペラ(ENO)の『ランメルモールのルチア』


ルチア役のセーラ・ティナンとエンリコ役のレスター・リンチ ©ENO. John Snelling

'Lucia di Lammermoor' by Gaetano Donizetti at the English National Opera

イングリッシュ・ナショナル・オペラ(ENO)の『ランメルモールのルチア』

開演前に席に着いてプログラムに目を通しているうちに定刻となった。観客席のライトが消えると同時に指揮者のスチュアート・ストラットフォードがオーケストラ・ピットに颯爽と入ってきて指揮台の前に立つ。演奏前の静寂な緊張感の中、ホルンとティンパニの音(ね)で始まる陰鬱な前奏曲の開始を待ち構えていると、どういうわけか演奏がなかなか始まらない。すると指揮者がピットから立ち去ってしまった。狐につままれたようだった。観客がどよめき始めるとストラットフォードが戻ってきて言った。「始めようと思ったら指揮台の上に楽譜が置いてなかったんです。大体は覚えているので楽譜なしでやってもいいと思いましたが、やっぱり取りに行ってきました。」などと冗談をまじえながら観客に謝った。数え切れないほどオペラを観ているが、こんなハプニングは初めてだ。スラットフォードのユーモアある謝辞は観客をリラックスさせお見事だと思ったが、始まってみると彼の指揮もあっぱれだった。彼の熱情的な指揮はこのオペラの豊かなオーケストレーションの繊細な音色を良く引き出していた。有名なルチアの「狂乱の場」は、大抵は伴奏にフルートが使われるが、この作品では作曲家のドニゼッティが本来望んだとおりグラス・ハーモニカ(奏者は、フィリップ・アレクサンダー・マルゲラ)が使われていた。不気味なほど繊細にきんきん響くガラス音が、傷ついて壊れてしまったルチアの痛々しさにマッチする。またルチアのアリア、"Regnava nel silenzio"(辺りは沈黙に閉ざされ)に先んじて奏でられるハープのソロは泉から湧き出る流れる水を連想させるように皇かに響いていた。歌手達は、ストラットフォードの指揮に率いられ後半に向けラストスパートがかかるように特に盛り上がりを見せた。

このENOの『ルチア』はデイヴィッド・アルデン演出による2008年の作品で、前回は2010年、これが2度目のリバイバルである。原作のウォルター・スコットの「ラマムアの花嫁」(1825)は、名誉革命(1688)直後にスコットランドで起きた実話を基にした小説だが、アルデンは舞台設定を19世紀のヴィクトリア時代に変えて、(現在にも共通しそうだが)当時の偽善や権力の構造を探求している。金銭的に困窮しているアシュトン家の危機を救うために妹ルチアを裕福なアルトゥーロ・バックローと結婚させようとする兄エンリコ、(アルデンはこの兄妹が人形を取り合いして遊んでいた幼少時に近親相姦的な関係だったこともにおわせ、兄が妹を束縛する関係を強調していた。)さらに仇敵であり、ラヴェンズウッド家出身のルチアの恋人エドガルド、カルヴァン派のレイモンド牧師、そして美しいルチアを手に入れようとする粋で明るい金持ちのアルトゥーロ、これら全ての男性にひきずりまわされ、狂い死にしてしまったルチアを父権社会の犠牲者と捉えているように見受けられる。但し、本来のアシュトン家は、政治的にもジャコバイトのラヴェンスウッド家とは敵対しており、バックロー家の援助が必要でそれがルチアとエドガルドの二人の禁じられた恋の伏線であるはずだが、この作品ではその含みが全く感じられなかった。チャールズ・エドワーズがデザインしたアシュトン邸のセットは陰気くさく、殺風景で寒々しい一方、壁には誇り高い先祖の肖像画をこれ見よがしに並べることによって、過去の栄光にすがるだけの没落したこのファミリーの様子をよく表していた。

ルチアを演じた英国出身のセーラ・ティナンは、コロシアムのような大きな劇場でのルチア役には若干体重が軽すぎるような感がありマリア・カラスやジョーン・サザーランドのような迫力あるルチアとは異なった。しかし可憐で人形のような姿は、男性の所有物として扱われるルチアを体現していた。更に高音を正確に出し、実際、「狂乱の場」のアリア "Ardon gli incensi"(香炉はくゆり)を歌う場面は感受性の強さが前面にでた優れた演技であった。レスター・リンチは歌唱力、演技力ともに抜きんでており、病的なまでに執拗にアルトゥーロとの結婚をルチアに強いる兄のエンリコを見事に演じた。牧師のライモンドを演じたクライヴ・ベイリーは相変わらずの迫力でステージプレゼンスもあり、心地よく響く低音の魅力で観客の心を惹きつけた。エドガルドを演じたエレアザル・ロドリゲスは後半に向けて実力を発揮し"Tombe degli avi miei"(私の先祖の墓よ)を歌ったときは心がこもり声も明朗で聴衆を魅了した。いつも通りENOのコーラスも秀逸だった。

開演前のハプニングはあったもののこの作品は『ランメルモールのルチア』が音楽的にドニゼッティの傑作だということを改めて気づかせてくれるENOの秀作だと思う。

ルチア役のセーラ・ティナンとアルトゥーロ役のマイケル・コルヴィン ©ENO. John Snelling

ルチア役のセーラ・ティナンとエドガルド役のエレアザール・ロドリゲス ©ENO. John Snelling

ライモンド牧師役のクライヴ・ベイリー ©ENO. John Snelling

アルトゥーロ役のマイケル・コルヴィンとエンリコ役のレスター・リンチ ©ENO. John Snelling

ルチア役のセーラ・ティナンとエンリコ役のレスター・リンチ ©ENO. John Snelling

Miho Uchida/内田美穂

聖心女子大学卒業後外資系銀行勤務を経て渡英、二男一女を育てる傍らオペラ学を専攻、マンチェスター大学で学士号取得。その後UCLにてオペラにおけるオリエンタリズムを研究し修士号取得。ロンドン外国記者協会会員(London Foreign Press Association)。ロンドン在住。ACT4をはじめ、日本の雑誌にて執筆中。

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