れいの場合 Spring - Autunm
“この人のこと、好き” 初めて目があったときに心から感じたことだった。でもこの時の好きは恋愛的一目ぼれではなかったことも、確かである。
4月のある朝。ロンドンに来て4日目。まだ時差ぼけを感じながらも、観光客には見られたくないという変な意地のみで、大英博物館の近くを出来る限り早く歩いていた。地図を頭の中に叩き込んできた甲斐もあり、あまり迷いもせずブルームズベリーにある語学学校に着くことができた。イギリス独特の、一区画のすべてが繋がっている建物。その一つのこじんまりとした扉を開ける。英語が分からなくても絶対に迷わないような壁の案内に誘われるがまま、階段を上り2階の受付に向う。入り口の扉と同様にこじんまりとした受付には1人の女性がパソコンに向かって仕事をしていた。そのレセプショニストは一目私を見ると、「新しい学生ね」と言ってから、間髪いれずに早口でテストの説明をし始める。言われるがままテストを受けた後、別の部屋に連れて行かれ、多分偉い先生らしき人と簡単な面談をした。あなたの趣味はなに?とかロンドンに来たのは初めて?とか、まったくもって当たり障りのない面談が終わった後、よく分からないまま中級クラスからのスタートがあっという間に決まった。
早口のレセプショニストから告げられた教室に行くとすでに2,3人、学生たちが席についていた。お互いに声をかけるわけでもなく、どこか不安そうな顔しているのを見ると、私と同じで今日が初日なのだろう。そんなことを思いつつ、自分もおもむろに空いている席につく。意味もなく教科書をめくったりして適当に時間を潰す。ふと窓の外をのぞいてみると、ずっと似たような白い建物たちしか見えない。きっと反対側の教室からだと、大英博物館の外観が見えるはずだ。しかし目の前の白い建物しか見えない風景が、自分がロンドンにとって非日常な旅行者ではなく、これからロンドンで学び遊び暮らしていく人間だという事を体の奥底から実感することができた。そんなことを考えていたらいつの間に国際色豊かな学生たちも登校してきて徐々に教室がにぎやかになっていく。気がづいたら小さな教室は10人くらいの学生でいっぱいになっていた。
そんな時、ある男性がこの小さな教室に入ってきて目が合った。“この人のこと、好き”という、微かだけどはっきりとした一瞬の予感。それとほぼ同時に「Hi」という小さな挨拶。クラスメイトたちが彼に挨拶しながら席に座り直したことから、彼がこのクラスの先生、リチャードだということを知ったのだ。
語学学校のシステムは様々だが、大体4週間くらいで先生は下のクラスに移動していく。そして生徒は実力に合わせてレベルが上がっていく。だから一度教わった先生に二回目を教わることはなかなか無い。だが結果として私の留学生活の半分はリチャードが先生をしてくれた。 リチャードはまったくもって先生らしくない先生だった。教科書に沿って教えるタイプではなかったし、金曜の午後なんかは結構適当に切り上げてしまう。しかし授業のスピードはとても速いし、かなり生徒にしゃべらせる上に、本人も早口でよくしゃべる。なにより彼の話す内容は幅広く、ユーモアのセンスもあり、早口なしゃべり方も相まってとにかくおもしろかった。リチャードは英語の先生以外にも、趣味で映画の脚本を書いていたから、映画の話はもちろん、舞台・小説・絵画・音楽・ゲームに至るまでなんでもよく知っていたのだ。授業中にもよくそれらの話を彼独特の言い回しで話していた。そして少し神経質で頑固なところもあった。そんなやつだったから、彼は基本的に男の子たちには人気があるが、女の子受けはそれほどでもなかった。
私が日本で学生時代に映画館でバイトをしていたことがあると、なにかの時に授業中にで言ったことから、私とリチャードはよく話すようになっていった。二人して趣味が似ていて、それでいて正反対な部分もあり、お互いよく話し、よく笑い合っていた。何よりリチャードとわたしは決してお互いの”ライン”は踏み越えない、ほど良い距離感を自然に保つことができる相手だった。しかし所詮、先生と生徒であり、学校外で会うなどはまったくなく、純粋に気が合う者同士、気楽で楽しい関係だった。
しかし側から見ると、とりわけ女の子からは、リチャードと楽しく過ごしているというのは中々不思議なことらしかった。 ひょんなことがきっかけで仲良くなったスミレにはよく、 「れいちゃんとリチャードは本当に仲良しだね。あんなリチャードの笑顔見たことないよ。」 と私によく話していた。 あまりにもそんなことばかり言われるから、ある日ついスミレに聞き返してしまったことがある。 「そもそもスーちゃんのクラスの時のリチャードはどんな感じなの?」 「よく話すし生徒にも話させるけどスピードが速いし、何より話の内容もよく分からないかも。男子はちょいちょい笑ってるけど。」 「あ、それはうちのクラスも同じ。」 「女の子は苦手な人も多いんだよね、実は。特にアンジェラとか、リチャードわけ分かんなーい、彼女いるなんて信じられなーい!って言ってる。」 そんなもんなのか、と自分と他の人との認識の違いをぼんやりと感じていた。
私の最初のクラスはとても国際色豊かで、ヨーロッパ、アジア、南米などいろんな国の学生が、ちょうど男女比も半々で集まっていた。あまりに絵に描いたようなクラスだったが、なにより素晴らしかったのはクラスメイトみんな仲がよかったことだ。金曜の夜は学校のイベントでクラブにいったり、土日もブライトンやオックスフォードまでショートトリップに行ったり、ここで私はロンドン生活での基本を作っていった。リチャードもこのクラスの仲の良さには驚いていたが、彼自身その仲の良さを喜んでもいた。 「やっぱり語学は話すのが一番だから、クラスメイト同士で遊びに行ってこい、君たちは言わなくても行っているか。」 よくそんな軽口を言っていた。和やかなクラスも6月過ぎにはクラス替えならぬ先生替えとなり、私にとっての第一次リチャードクラスは終了した。
7月8月は語学学校もかき入れ時で、大勢の人間で溢れていた。リチャードとはたまにすれちがって挨拶するが、その瞬間お互い校内の人ごみに流されてしまい、特に何か話すことはなかった。なにより私は、新しい友達や以前からの友達と仲良く遊びまわることにとても忙しかった。そうやって楽しくて勢いのあったロンドンの短い夏はあっという間に過ぎ去った。
9月も近くなるとどんどん仲良かった友人たちも自分の国へ帰っていく。そして10月にはスミレも日本へ戻ってしまった。友人たちの帰国に合わせて、私はウエストエンドの劇場通いにハマッていった。ロンドンの良いところは、一人でも楽しく遊べる場所がたくさんあることだ。そんな良い点を私はあまりに利用しすぎて一人で居てもまったく寂しくなくなってしまった。
そんな時期にまたリチャードは私の担任になった。その頃のリチャードはかなり意識して私に話しかけるようになってきた。さりげなく授業中に 「レイはロンドンの劇場のことなんでも知っているから、一緒に遊びに行くといいよ」 「ロンドンのアートはレイが誰よりも知っている」 と他のクラスメイトに向かって言うようになった。リチャードのすごいところは一歩踏み込んできたものの、やはり”ライン”は決して越えない距離と頻度でこんなことを言い続けることだ。なんだか大学も卒業して3年も経つのにこんなことで気を使わせてごめんねリチャード、そんなことをうっすら思っていた。でも私は一人遊びをやめることは決してなかった。
ある日、テストが終わった後、リチャードは突然、これからの勉強をどう進めていくかを一人ひとりと話そうと思うと言い出した。また珍しいこと言い出したなって思いながら待っていたらいつの間にか一番最後まで待たされていた。最後に私を呼んだリチャードは別の教室に案内した。しゃべるのも早いが歩くのも早い。ついていくのに必死で少し息切れしてしまうレベルだった。そんな中リチャードはいつもと同じ調子ながら私にとって予想外のことを言い始めた。 「レイはもう勉強はいいから。」 「どういうこと?」 「テストの点は悪くないし、スピーキングも問題ないよ。だから友達と遊べ。飲みに行け」 「友達いなくないよー大丈夫だよ。」 「そんなことは分かっているよ。君は大人だしね。でもレイ、夏の間、君はいろんな国の友人たちと毎日たくさんの場所へ出掛けていただろ。本当に楽しそうだった。それなのに最近はずっと一人で劇場にしか行ってないじゃないか。」 「私が舞台に夢中なのは誰よりもリチャードが分かっているじゃない。それに今もとても楽しいよ。」 「とにかく次の月曜日のスチューデントナイトに参加しなさい。これがレイへのアドバイスだ」 「...分かった、考えます。リチャードはいくの?」 「いかないよ、俺は先生だから。」 もちろんわたしはスチューデントナイトに参加しなかった。
つづく
原田明奈
千葉県出身アラサー女子
今作が小説家デビュー、前職はお皿洗いからパラリーガルまで幅広い。いろんなことにとりあえず首を突っ込んでみるチャレンジャー。